May 13, 2005
メンタルヘルス、ねえ…
ぼせwebさんのトコに、こういう記事(ゲイのメンタルヘルス)があって、うーむ、と思いながら読んでた訳ですが。
あんまり、なるほどーと思えないのは、俎上に挙げられている問題が、ゲイ特有のものには思えないから、かな。
一番問題とされているのは、結婚に代表される社会的慣習との距離だと思うのですが、ゲイだから、そういう慣習(あるいは抑圧)からフリーでいられる、とは思わないですし。
ぼせwebさんが取り上げられているバディの当該記事を、僕は読んでないのですが、ぼせさんのエントリによると、
ということらすぃ。
で、そこからぼせさんは、ノンケの友人から云われて心に残ってる、という次の言葉を挙げられてます。
ぼせさんは、これに対して、
とおっしゃってる。
でも、最初の2つの引用って、
社会的存在意義を見いだしにくいので、「生きがい」が感じられない。
社会的な抑圧があるので、「生きがい」について考える機会がある。
と云ってる訳で、これって「他人の芝は青い」と云い合ってるだけでねえっすか? そこにイーブンもへったくれもないのでは?
ゲイである、ということは、日本では社会的に認知されていませんから、社会との距離は、そりゃノンケと違う訳ですが、ゲイであってもノンケであっても、各々の社会生活がありますから、対象が違うだけで、それに至るまでの道程が、どちらにおいても存在しない訳ではない。
それに対して、「生きがい」を見いだすかどうかなんて、結局は、ゲイであることに還元される問題ではなくて、個人の問題じゃないのかなあ。
あんまり、なるほどーと思えないのは、俎上に挙げられている問題が、ゲイ特有のものには思えないから、かな。
一番問題とされているのは、結婚に代表される社会的慣習との距離だと思うのですが、ゲイだから、そういう慣習(あるいは抑圧)からフリーでいられる、とは思わないですし。
ぼせwebさんが取り上げられているバディの当該記事を、僕は読んでないのですが、ぼせさんのエントリによると、
ゲイは自己肯定感が低くなりがちで、社会的存在意義も見いだしにくいので、「うつ」や「生きがい」の問題を生じやすいとのこと。
ということらすぃ。
で、そこからぼせさんは、ノンケの友人から云われて心に残ってる、という次の言葉を挙げられてます。
「きみがゲイなのが、ほんといいなと思う。考えるキッカケをくれるし、人生の障壁もあたえてくれるし、それが、すげぇ羨ましいよ」
ぼせさんは、これに対して、
結婚だ、子どもだ、姑だと喜怒哀楽しながら生きることと、カミングアウトだSTDだセクフレだと喜怒哀楽しながら生きることはイーブンにはならないんだろうか。
と問うてみても答えは現状からも明確で、イーブンじゃない。やっぱりノンケとゲイでなにか違いがあるわけです。
とおっしゃってる。
でも、最初の2つの引用って、
社会的存在意義を見いだしにくいので、「生きがい」が感じられない。
社会的な抑圧があるので、「生きがい」について考える機会がある。
と云ってる訳で、これって「他人の芝は青い」と云い合ってるだけでねえっすか? そこにイーブンもへったくれもないのでは?
ゲイである、ということは、日本では社会的に認知されていませんから、社会との距離は、そりゃノンケと違う訳ですが、ゲイであってもノンケであっても、各々の社会生活がありますから、対象が違うだけで、それに至るまでの道程が、どちらにおいても存在しない訳ではない。
それに対して、「生きがい」を見いだすかどうかなんて、結局は、ゲイであることに還元される問題ではなくて、個人の問題じゃないのかなあ。
トラックバックURL
この記事へのコメント
1. Posted by ボビー May 14, 2005 02:45
たしかに、「生きがい」とは何なのかを考えたときに、「生きる喜び」を感じるものであるが故、ゲイだノンケだに囚われず、超越してそこに存在する、まさに人それぞれ違うのが生きがいで、それは各個人が見つけていくものだとは思います。
ただ、ゲイをとりまく社会の抑圧が、ゲイの「生きがい」を見失うきっかけになっているとしたら、「生きがい」を見いだすかどうかという問いはゲイにおいてより現実味を増してくるわけで、一概に個人の問題としては片付けられないのではないかと思うのですが。
言葉が足りないですが、ご勘弁を
ただ、ゲイをとりまく社会の抑圧が、ゲイの「生きがい」を見失うきっかけになっているとしたら、「生きがい」を見いだすかどうかという問いはゲイにおいてより現実味を増してくるわけで、一概に個人の問題としては片付けられないのではないかと思うのですが。
言葉が足りないですが、ご勘弁を